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夏の風物詩である、全国高等学校野球選手権大会(いわゆる夏の甲子園)が

2019年8月22日、大阪の履正社高校が初優勝し、幕を閉じました。



それに先立つ2019年7月25日、地方予選で、岩手県立大船渡高校が、エース佐々木投手を登板させずに夏の高校野球予選決勝で敗れたことが話題となりました。


大船渡高校には、佐々木投手を登板させなかったことに対して苦情の電話が多数寄せられたということも報道されました。


また、私は観ていませんが 同月28日(日)朝の「サンデーモーニング」で、元プロ野球選手の張本勲氏が


「怪我が怖かったらスポーツはやめた方がいい」 「楽させちゃダメですよ、スポーツ選手は」


などという発言し、佐々木投手を登板させなかったことを批判したようです。


張本氏は

「監督と佐々木くんのチームじゃないんだから。ナインはどうしますか?」 「やっぱり甲子園は夢なんですよ」


とも発言したようです。



皆さんは、高校への苦情や、張本氏の発言をどう捉えられたでしょうか。



私は、到底甲子園に及ぶような実力はありませんでしたが、高校球児でした。 また、大学でも、甲子園で行われる、大学日本一を決する甲子園ボウルに出場したくて、アメフトをしました。

大学浪人時代、大学の5回生コーチ時代も含めて、つごう9年間、甲子園を目指し続けたことになります。


その私は思います。


「甲子園に出ることがすべてではないだろう」と。



高校への苦情や張本氏の発言は、「甲子園に出ることがすべて」という価値観に基づいていると思います。


たとえ、怪我をするリスクがあったとしても、甲子園に出場できる可能性があるのであれば、その実現に向けてどんな犠牲も払うべき。


そんな考え方です。 張本氏の発言は、そういう思想を如実に反映していると思います。



ちょっと待ってください。


学生スポーツは、あくまで「課外活動」に過ぎません。反対に、「課外活動」ではあっても、学校で行われる教育の一環です。

学生スポーツは、学生に対する教育という大きな視点を忘れては断じていけないのです。


それを忘れる指導者が、精神を鍛えるためなどと言って体罰を行うのです。 また、昨年春の日本大学のアメフト部のような問題が起こるのです。


何でもかんでも、甲子園に出るためにはどんな犠牲も払うべき的発想には 「教育」の観点が完全に欠落しています。



すべては教育のためです。



私は有り難いことに、甲子園を目指した高校3年間と大学での4年間 「教育者」である指導者に巡り会うことができたので、理不尽な仕打ちや体罰などを経験することはありませんでした。


「だからお前は大したスポーツ選手になれなかったのだ」などと言い放つ方もおられるかもしれませんが 理不尽な仕打ちや体罰を受けるのがお好きな方は、どうぞご自由にご自身だけで済ませてください。

そのような価値観が万人に妥当するという前提で押しつけないでください。


今回の件でいえば、大船渡高校の監督は、教育者として正しい行動を取られたのではないかと思っています。

もちろん、前提として、佐々木投手を含めた部員たちが納得できるそれまでの関係性の構築や信頼関係の醸成が必要だとは思います。

それなしでは、「教育」とはなり得ないでしょう。



日本の学生スポーツは、恐ろしく前近代的発想が息づいている領域です。


特に高校野球は、そもそもあのくそ暑い中、連日過密なスケジュールで行われること自体、無意味です。

無理をすることが美談と扱われるような、そんな世界です。


勘違いしていただきたくないのは、甲子園、そして日本一を本気で、必死に目指すこと自体を否定しているのではありません。

逆に、本気で、必死に目指さなければ、学生は人間として成長せず、「教育」足り得ないと思います。


高校野球をしている以上は、甲子園を目指すことは当然であり、大前提です。 しかし、それが実現できたかどうかが、すべての物差しではないはずです。



それまでの課程において、どのような時間を過ごしたかが重要なはずです。



例えば、甲子園に出られたとして、その本人が、大した努力もしなかったと受け止めているとしたら、出場したことそのものにほとんど意味はないと思います。


反対に、甲子園に出場できなかったとしても、また、その本人が、自分の努力が足りなかったと考えたとしても そのことを次のステップへの反省として活かすことができるとすれば、甲子園に出場できなかったことが、その本人の成長にとって意味があったことになります。


そのように考えられる人間を育てられるかどうかが、「教育」なのだと思います。



今回の一件では、大リーグのダルビッシュ選手が



とツイートしたり



とツイートしていて、本当にそのとおりだなあと思いました。

ダルビッシュ選手は



ともツイートしています。 これも本当にそのとおりだと思います。



日本の学生スポーツ界や、それを取り巻く関係者が、早く、前近代的発想をとっぱらい、「教育」に基づいた制度運営をしていってくれることを願ってやみません。

更新日:2019年8月22日


お薦め映画のご紹介です。




(画像は映画公式サイトからお借りしました)

「簡素な木造アパートで、息子と二人で暮らしている28歳・雪子。ある日、彼女のもとに高校時代の同級生の訃報が届く。卒業から10年の時を経て、通夜に集まった同級生たちが体験したのは、これまでに見たことも聞いたこともない奇想天外なお通夜だった――。

数々の川端作品からモチーフを得たオリジナルストーリーで綴る青春群像ファンタジー!」

(茨木市HPより)



なぜこの映画をお薦めするか。


そう、何と私の母校である茨木高校がこの映画の舞台となっているからです!



茨木市HPにあるとおり、この映画は、川端康成の作品をモチーフにしているとのことですが、川端康成は、茨木高校(正確には旧制茨木中学校)の大先輩です。


オール茨木ロケで、母校でもロケが行われたようです。私の現役時代にやって欲しかった。


私は硬式野球部OBですが、予告編を見ていると、どうやら野球部も関係しているようです。


また、体育祭のときの「援団」の練習風景も出てきそうです。「援団」というのは、いわば応援団の演舞なのですが、女子も学ランを着て、3学年合同で、クラス対抗で行われ、知る人ぞ知る体育祭のメインイベントの一つです。



茨木高校は制服が学ランとセーラー服で、良く言えば古典的なデザイン、悪く言えばダサいのですが、予告編を見ると、前田敦子さんや高良健吾さんなどが着ている様は、私たちが着ていたものと同じとは思えないので不思議です。



川端作品の中から、「葬式の名人」、「師の棺を肩に」、「片腕」、「バッタと鈴虫」、「十六歳の日記」、「古都」、「少年」、「化粧の天使達」をモチーフとしているとのことで、映画を見る前なのか後なのか、小説も読んでみようと思います。


2019年8月16日、茨木市先行ロードショー、2019年9月20日全国ロードショーです。

公式HPはこちら。茨木市HPはこちら



映画もご覧いただき、茨木市へも足を運んでみていただければと思います。

私も学生時代に行っていた場所に、久々に足を運んでみようかと思っています。

更新日:2019年8月22日

取扱分野の欄にも書いていますが、私は、弁護士になってからずっと、子どもの権利に関わる活動をしてきています。


もともとは司法浪人時代、児童虐待のニュースに触れる度に、子どもが最も愛されたいと思う、世の中で最も信頼している親から拒絶され、否定され、最悪の場合命を絶たれるなどということはあってはならない。

どうすれば児童虐待はなくせるのか。弁護士となった際には、児童虐待に関わる仕事をしよう。


と思っていたのがきっかけです。



そして考えていたとおり、弁護士となり、弁護士会の子どもの権利委員会に入り、当初は、児童虐待を扱う児童福祉部会に所属し、児童相談所からの相談を受けたり、京都で子どもシェルターを創設する活動に加わったりしました。


訳あって現在は少年非行を扱う付添人司法制度部会に所属し、少年事件との関わりで子どもの権利に関する活動をしています。



加えて、昨年度までの2年間、「大津の子どもをいじめから守る委員会」(以下「守る委員会」といいます)という常設の第三者委員会の委員を、臨床心理士、臨床発達心理士、大学名誉教授、滋賀弁護士会の先生方と務めさせてもらいました。


守る委員会は、大津市内の公立の小中学校でのいじめ案件に関する相談対応や制度改革への提言を役割としており(現実にはその機能を十分に果たすことが制限されていて、大津市のいじめ行政にとってとても大きな問題であると思っています。)委員を務める中で、学校教育現場についても垣間見えてくるものがありました。


そのことについて書きたいと思います。



現在、「発達障害」という言葉を聞いたことがないという人は、いないのではないかと思います。


しかし、私が小学校や中学校のころ(30年ほど前)、「発達障害」などという言葉が使われることは、あったのかもしれませんが今のように一般的ではなかったと思います。


かく言う私も、現在であれば、「発達障害」の診断を受けているのではないかと思うふしがあります。


守る委員会で審議される事案に出てくる「発達障害」の診断を受けたという子どもさんの行動と、子ども時代の私の行動がさほど変わらなかったりするからです。 これは委員会の中でも度々述べていました。



現在は

「発達障害がある」からそういうことをするのだ あるいは、「発達障害がある」から他の子とは異なる配慮をする

と定型化され、「その子そのもの」を見てもらいにくくなっているように感じています。


随分息苦しい世の中になったなあ、と思います。


私が子どものころは、学校も社会も、もっと寛容だったのではないかと思います。

私の小学校や中学校の先生たちは、もっと「その子そのもの」を見てくれていたように思います。


守る委員会でご一緒させていただいた兵庫県臨床心理士会の会長も務めておられる羽下大信先生も、事ある毎に、「発達障害」などという概念を持ち出す必要はない、大切なのはその子がどんな援助を求めているかだ、と言っておられました。


私自身そのように感じてきていたし、対人援助職のプロ中のプロの先生がそのように言われることで、やはり間違っていなかったと思いました。



子どもがこうやってラベリングされることで、その子どもの親御さんもまた、苦しい思いをされることが多いと思います。


学校教育現場や社会が、「発達障害」と一括りにしてしまい、「その子そのもの」のよさも捨象してしまうからです。


もちろん、育てにくさを抱えてこられた親御さんが、「発達障害」との診断を受けることで、ある種の納得感や安心感を得られるということもあるかと思います。


しかし、私がご依頼いただく事件などでも、子どもさんが「発達障害」の診断を受けたということで、親御さんや子どもさんの意思とは無関係にレールが敷かれてしまったことに苦しんでおられるケースが多々あります。


今の学校教育現場や社会の「発達障害」の子どもへの関わりは、子ども一人一人の可能性を狭める方向に向かっていると思えてなりません。



子ども一人一人をのびのびと、可能性をぐんぐん伸ばしていってあげるように、大人一人一人が関わっていきたいですね。




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